「いちご桜もち」を考える

3月の広島の旅で、美味しいみかん入りの大福を食べた。

昨今はいろいろなフルーツ入りの大福があるが、

果物入りの大福の元祖はいちご大福に間違いないだろう。

いちご大福かイチゴ大福か苺大福か。ひらがなで書くのがよい気がするが、どうだろうか。

さてデザインである。

中にすっぽり包み込まれているのが私は好きである。なぜなら大福だからだ。

大福は中に餡が入っていて外観は丸い。長年そういう姿である。

半分に割れてイチゴがビョンと顔をだしているデザインのものが増えているが、

大福の気持ちになれば、少々気の毒気がする。

時代が変わったのねえ、しかたないなわねえと諦めているのではないかしらん。

文化は時代とともに変わる。

そもそもコメをたたいて餅にした段階で、そうとうアバンギャルドだったのではないか。

小豆を潰して餡にして、それを餅の中に入れて・・・と、どんな「食」も、

一段階ずつ変化してきたに違いない。

探究心、あそびごころ、必要に迫られて・・・など理由はいろいろあっただろうが、

そのつど、「え?そんなことする?」と言われてきたはずだ。

これはファッションでも住まいでも、家具の文化でも同じだろう。

先日のお茶時間の桜もちにもイチゴが入っていた。

パックリ上部が開いてイチゴが主役。あくまでも主役はいちごで桜もちは土台の脇役にしか見えない。

味もイチゴの勝ち。

思えば

どんな分子も運動し続ける。

文化も変化し続ける。

その中で何かを「守る」、「こだわる」、「伝える」ことがいかに難しいか、

いちご桜餅を食べながら考えこんでしまったのでした。